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2009年2月22日

《奇跡を行うキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ14:22〜36

降誕節第九、讃美歌24,272,532、交読文30(詩127・128篇)
聖書日課 マタイ14:22〜36、申命記30:15〜20、ヤコブ1:12〜18、詩編91:1〜16、

不順な天候が続いています。多分季節の変わり目に入ったのでしょう。数十年前までは、三寒四温など決まりきったような形で変化が進行しました。この頃は、そうした形が通用しなくなりました。今の時期は春一番が吹くもの、と考えています。たしかに今年は先週吹きました。そのニュースの中で、昨年は吹かなかった春一番が、と告げられました。
昨年は、本土に上陸する台風がなかった、という珍しいことも思い出しました。

それでも確実に季節は移り変わります。一昨日、黒門市場を通り抜けました。お花屋さんの店先は、春の色が一杯、溢れるようでした。
2月8日だったでしょうか、講壇に桜の花が見られました。今朝は、菜の花と桃の花。
講壇のお花は、ものは言わないけれども、もう春ですよ、と語り出しています。

さて本日の聖書は、マタイ福音書14章、「湖の上を歩く」と小見出しにあります。
多くの奇跡の中から、自然に対する奇跡物語をお読みいただきました。
初めに、大雑把に読みましょう。

主イエスは、5000人の給食の後、なぜか弟子たちを船に載せ、湖の向こう岸に行かせられます。そしてその間に群衆を解散させられます。それからお一人で、祈るため山に登られました。夕方になってもまだ山におられた、とあります。

 給食はお昼すぎのことだったのでしょうか。15節では「夕暮れになったので」とあります。群衆を解散させ、山に上り、祈り、まだ夕方。他の日のことかもしれません。福音書記者は、細部には頓着していないので、困らされることがあります。上手にお付き合いしたいものです。細部に拘泥しないほうが良い場合もあるようです。

弟子たちを乗せた舟は、どうやら、夕方湖に乗り出して、一晩中激しい風と波に悩まされ、着岸できなかったようです。25節は「夜明け頃」とありますが、夜明け頃、原文では「夜の第四更」です。ローマ式に夜を四分し、その第四の部分。およそ午前3時ごろから午前6時ごろまでを指します。ガリラヤ湖は、その地形上の特徴があり、南からの突風が激しく吹くことがあり、地元の漁師にも予測が付かず、随分犠牲者を出してきた、と書かれていました。岸から「何スタディオン」の距離の所で進退窮まっている様子です。
スタディオンは長さの単位、およそ185メートルです。
この様子を主は山の上から御覧になったのでしょう。

「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」。弟子たちはこれを見て「幽霊だ」と言いました。これは、恐怖の余りあげた声です。決して主イエスと認めて喜んだものではありません。

「幽霊だ」、ある翻訳は「妖怪だ」とします。私は不勉強で、この間の違いがわかりません。『ゲゲゲの鬼太郎』をよく読むべきだった、と思います。また『ハリー・ポッター』や『ゴースト・バスター』なども見るべきだったのでしょう。
幽霊、妖怪、化け物、怪物、怨霊、魂魄、それぞれに違いがあるそうです。

主は言われます。「安心しなさい、私である、恐れるな」と。
これにすぐ応答するのは、弟子たちの代表格ペトロです。
「主よ、あなたでしたらわたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。
これが、そのときのペトロの信仰であることは確かです。

主は、ペトロに言われます。「来なさい」。
ペトロは、船べりから水の上に足を踏み出します。まだ波は収まってはいません。風もありましょう。一歩を踏み出す勇気をペトロは示しました。たいしたものです。
そのペトロが、ふと風の勢いに気付きました。恐怖に駆られます。すると沈みかけます。
主イエスは、手を伸ばしてペトロを捕らえ、言われます。「信仰の薄い者よ、何故疑ったのか」と。

二人が船に乗り込むと、風は静まりました。それを目の当たりにしたペトロは、「本当にあなたは神の子です」と言ってイエスを拝みます。プロスクノー が用いられています。礼拝と訳されるラトゥレイオー、レイトウルゴーではありません。
いわゆる主日礼拝式などをさすのではなく、全生活をあげて神を尊崇する意味の言葉です。
ペトロが、全身全霊をもって、イエスの前にひれ伏していることを理解してください。
後にパウロが、ローマ書12:1に書いた霊的な礼拝(ラトゥレイア ロギケーン)の内容がここにあります。言葉は違いますが。
そして、この深く、強い信仰を表現したペトロにしてなお、「私はこの人のことを知らない」と言ってしまうのです。マタイ26:69〜75をお読みください。

この後、船の一行は、ゲネサレトへ行きます。湖の西北岸で、カファルナウムの南、肥沃な土地で雨も多く、豊かな農耕地。
ここでは、多くの人々がいやされます。

さてこれら奇跡物語は、私たちに何を語り掛け、伝えようとしているのでしょうか。
旧約聖書では、この世界の創造主ヤハウェの力は、海の嵐、荒波を支配する力によって、しばしば強調されます。詩編107:23〜30(948ページ)をご覧ください。
マタイ福音書は、キリストの出来事を旧約聖書の成就、実現として描きます。イエスの存在によって風も波も治められることに、大能の神の力を見出し、旧約の成就を確信したとしても、少しもおかしくはありません。詩編107編を目の当たりにしていることを喜んだでしょう。

次に、福音書の構成の中から学ぶべきことを、聞きましょう。
バプテスマのヨハネが死んだことを告げる記事は、14:16まで。その次に5000人の給食が語られ、それに続いて海上徒渉の記事となります。
イエスこそ来るべきメシア・キリストである、と預言したヨハネが死ぬ。ヨハネの預言が、彼の死によって固定・確定されたように感じられます。彼は自らの命をもって、その預言を証明したのです。ヨハネは、その時代の権力者たちに敗北したのでしょうか。諸々の、支配する力に敗れたのでしょうか。悪の諸勢力が勝利を納め、凱歌を歌っているのでしょうか。殺した者たちのほうが、まるで敗北者のように頭を抱え、恐怖におののいています。
ヨハネは死を通して、権力者・支配者たち、悪の諸力に勝利を収めました。

海上徒渉、昔の人の言い伝え、カナンの女の信仰(異邦人)、多くのいやしと給食、天からのしるし(ファリサイとサドカイの人々の教え)、ペトロの信仰告白と続きます。
これはそれぞれ、自然の力、人々の主張する権威(自己絶対化)、異邦人排除(イスラエルの独善)、人の困窮(貧困はすべての罪悪の根源)、聖書に基づいているとする権威、これら諸勢力との戦いなのです。

我らの主イエスこそ、これら悪の諸勢力に勝利を収めた方です。イエスにこそ、この勝利の秘密が潜みます。イエスのうちにこそ、すべての悪に勝利する力があります。その秘密は、今やすべて私たちに与えられます。

ヨハネ福音書15:11〜17(199ページ)には、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という有名な言葉が記されています。15節をご覧ください。
「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。

全体の文脈は、すべてをお前たちに知らせたのだから、既に友である。もはやお前たちを僕とは呼ばない。すなわち、イエスは、私たちにすべてを伝えた、そして私たちの友となった。そのお前たち、友のために命を捨てる者がいる。これ以上の大いなる愛はない。
互いに愛し合いなさい。このように語られ、教えられておられるのです。

キリスト・イエスがなさったこと、伝えてくださったこととは何でしょうか。
たとえ短いとは言え、三年の公生涯を含む40年近い生涯。多くのことがなされ、語られ、教えられ、ています。そのうちのどれなのでしょうか。多過ぎて、解りません。
『聖書の言葉は聖書によって解釈され、理解されるべきだ』と学びました。
主ご自身の言葉によれば、愛を行なった、となる。これが私の理解、考えです。
図式的に言えば、自己中心的な力と神中心の愛との戦いです。
自分の利益のために他の人間を利用しようとする強い傾向があります。
他の人の喜びのために自分を提供しようとする生き方もあります。

そしてもう一つのことがあります。信仰と疑いの問題です。
信仰とは何か、この問いはいつでも繰り返されてきた。多くの人が、それぞれの解答を用意してくれています。『信仰とは信頼である』、という答えは記憶に残されています。それでも『信仰義認』という福音信仰の大前提の前では色が薄くなります。信頼は、行為と大変近い関係にあるように感じられるからです。神を信頼するという行為、のように感じられて、信頼は大切だけれど、信仰そのものとすることをためらいます。受け入れがたいものを、あえて受け入れる。疑いつつ信じる、これが私たちの現実です。

マルコ9:14〜29、汚れた霊に取り付かれた子をいやす(マタイ17:14〜20、ルカ9:37〜43)。簡単にお話します。幼いときから汚れた霊に取り付かれている子供のいやしを求める父親がいます。彼に対し主は、信じるものには何でも出来る、と言われました。すると、この父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と答えます。この答えは、私たちの間に不思議な感情を惹き起こします。信じると言った者が、直ちに不信仰な私、と言うのです。確かにおかしい。しかしこれが信仰の現実の姿ではありませんか。そして主は、この父親の答えをお受け入れになります。汚れた霊を追い出し、この子供を立ち上がらせ、「この類は、祈りによらなければ」と言われます。

信仰には、完全はありません。生き物です。祈りによって息をし、力を得て、成長します。不信仰な者も、信仰から信仰へと成長するのです。

キリスト・イエスにおける神の愛が、信仰を惹き起こし、成長させてくださいます。
最大の奇跡は愛、そのものです。

感謝しましょう。