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2006年3月5日

《アブラハムは長寿を全うした》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記25:1〜18

わたしたち人間は好奇心の塊です。それがあるから、生き続けられる、という面があります。好奇心は注意力にもなります。古代世界ではこの欠如は死をもたらします。現代でも、好奇心がなくなったらもうおしまいさ、などと言われます。好奇心にも悪いもの、否定的に扱われるものと良いもの、肯定的に扱われるものがあります。時として聖書記者にも、この肯定的な好奇心が顔を覗かせます。
サラの死後、アブラハムとイサクがどのように生活するか、関心を寄せるのは当然でしょう。イサクはリベカと結婚しました。アブラハムは再婚します。女性の名はケトラ、6人の子どもを夫に与えます。

アブラハムの死は、175歳の時にやってきました。
「満ち足りて死に」とあります。平穏のうちに、静かに息を引き取ったと考えられます。現代では、スパゲッティ症候群という言葉が用いられます。当人の意思に関わりなく、医師の側の「ヒポクラテスの誓い」を盾にした医療が行われました。「最良の医療を行います」という誓いだと伺いました。生かす、ことです。最近は少し変わってきたようなので過去形にします。出来る限りの延命措置を行わねばならない。ご家族も最後の別れを行いたい、しかし、お医者様は、医療を続ける。酸素マスク、点滴のチューブ、側にも近寄れない。
そうした状況は、すでに過去のものとなり、患者や家族の意向を良く汲み取った医療になってきているようです。
その亡骸は、サラを葬ったマクペラの洞窟に横たえられます。
人間にとって本当に必要な土地は、自身の亡骸を横たえる場所だけであることが示されます。

 「長寿を全うした」と記されていることに注意を引かれるのではないでしょうか。
現代のわたしたちにとって175歳は、とてつもない長寿です。しかし、創世記の中では如何でしょうか。創世記11章の系図を見て見ましょう。
セムは600年、アルパクシャド438年、シェラ433年、エベル464年、ペレグ239年、レウ239年、セレグ230年、ナホル148年、テラ205年。

長寿とは何でしょうか。一般的には、長生きして、祝福された終焉を迎えること。
アブラハムの場合、先ず長く生きたのか、という問題が起こります。
現代でも、黒海の南の高原は長寿の人が多いことで知られています。130歳以上がざらにいる。しかも活動しており、大変お元気に見えます。現代の長寿村です。
セムと比べると、驚くほど短くなっています。父親のテラと比べても随分短い。
それなのに何故「長寿」、と書き記すのでしょうか。
時間的な長さではなく、長寿の寿の字に注意を向けるとどうなるでしょうか。
恐らくこれは満ち足りていることを指すものでしょう。年数において、その内容において、祝福されている、という喜びに満ちた言葉、文字です。
長生きした、と書いてあるものが、長寿と訳されたとき、少し違う意味を持ち始めるのです。単純な年数の長さではなく、その中身が語られるようになるのです。
アブラハムは長生きしました。しかしテラよりも短い生涯だった。それでも彼は、満ち足りた人生を送ることが出来た。それが長寿という訳語が指し示す意味でしょう。

この章は、アブラハムの死と埋葬の前後にケトラの子孫とイシュマエルの子孫について書いています。この意味するところは何でしょうか。考えてみましょう。
 彼らは、イサクから遠ざけられ、全く別のもの、人種、民族、部族として扱われます。別々に生活し、増殖します。近縁種の交配は、その種の力を弱める、と聞きます。別系統の増殖により、アブラハムに対する神の約束は成就しているのです。
 ケトラ系、イシュマエル系もアブラハムの血筋なのです。子孫なのです。
キリスト教伝統は、そのことを無視します。ただイサクによってのみ、約束は成就する、と語ってきました。そのように教えられてきました。それは、当時の民族間の対立に根ざした考えなのです。むしろ元来、聖書は排除するのではなく、これらの系統もアブラハムの子孫であって、神の約束が人の思いをはるかに超える形で成就している、と語ってきたのではないでしょうか。数ばかりではありません。近縁種の交配を避け、新しい力に満ちた、新鮮な活力に溢れる多くの民族として発達することが出来る、出来たのです。

 ところでその現実は如何でしょうか。聖書の時代は、民族、部族間の対立、抗争が激しかったようです。現代になっても、同じようにアブラハムを民族の父祖と崇め、エルサレムを大切に考えるものたちが争っています。中東の諸民族が、他の民族を認めることが出来ず、拒絶し、ある者たちは、イスラエルを地中海へ追い込むまで戦い続ける、と公言しているのです。このいわゆるパレスティナ問題には、古くからの、長い経過があって、何を言っても不十分でしかありません。出エジプト記の時代から説き起こす人もいます。
簡単に6点を挙げて、問題を整理してみましょう。
1、イスラエルがカナン、パレスティナに覇を唱えていた時代、彼らは周辺諸民族を軽侮・蔑視していた。日本の植民地支配も同じ。
2、イスラエル国家が消滅した後、この地方は長く空白であり、共存していた。
3、十字軍の遠征は、その目的とは逆に、この地に強大なイスラム国家を成立させ、ユダヤ人を排斥させる結果となった。
4、それでも、イスラム世界の中で、ユダヤ人は共に暮らすことが出来た。
5、第一次世界大戦は、対立を激化させる種を蒔いた。サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言。アラブとユダヤ双方に、同一の土地に国家樹立を約束した。英国の政治戦略。
6、第二次世界大戦後、イスラエル国家樹立。これは対立とテロ、戦争の始まりとなった。

西欧世界の自己中心的な独善主義が、今日の混乱を招いた。然るに英国を初め、諸国はその責任を回避している。W・チャーチルはその著書の中で責任は少しも認めない。厳しい対立になると、民族自決の原則を持ち出し、植民地を放り出してしまう。
自分だけ良ければよい、という考えが、多くの悲劇を生み出した。

ハーバード大学総長を長くつとめた先生が居られて、その退任の時のスピーチでこんなことを言われたそうです。「あなた方には、もう少し、他の人のことも考えて欲しい」と。

アブラハムの子孫は、イサクの子孫として、現代ユダヤ人となりました。世界の経済、科学、技術、芸術、あらゆる領域の指導的地位を占めるのがユダヤ人だそうです。
そして他方、ケトラ、イシュマエルの子孫もアブラハムから出た者たち。中東の諸国家を樹立し、石油産出国というだけではなく、ユダヤ、ヨーロッパとは違う文化を形成してきました。価値観を示してきました。

 虚心にこのことを考えるとき、何故この世界に争いが耐えないのだろうか、不思議になります。近親憎悪なのか、とも思います。しかし、この聖書は争いを認めるようなものではありません。アブラハムが長寿を全うした、と語るのです。祝福された生涯であったことを示しているのです。そこからは争いではなく、平和共存が出てくるでしょう。

 世界の争い、自己中心。そこから出てくるものは、冨の所在の偏り(貧富の格差)。
立派なお屋敷があると、一方でスラム街がある。国家の防衛保障が論じられるそばに難民キャンプがある。立派な工場があれば、その川下に排水だまりがあり、その水を飲んでいる。
たくさんの輸出品の生産、それらを自分たちは少しも使うことも食することも出来ない。残るのは産業廃棄物と環境悪化だけ。ここから争い、テロ、戦争が始まる。そのために浪費される多くの力、命。結果として生まれる多くの悲劇、苦悩。積み上げられる怨恨、呪詛。途方もない負のエネルギーへの転換が起こります。
正のエネルギーへの転換が起こり、それを活用すれば、多くの人が長寿をまっとう出来るのです。年数において、その内容において。
他の人のことを考える、周囲に人たちへ配慮することにおいて、祝福された生涯が全うされます。敵対を正当化する言葉があります。そこから私たちは、源流へとさかのぼり、平和を見出すのです。対立と反発のあるところに和解をもたらすのがキリストの福音です。


欄外

ケトラは「薫香を焚かれた女性」の意。アラビア半島の香料交易に関係する名。
デダンの子等は歴代上1:32、33のアブラハムの系図にはない。

ケトラの子孫には、不詳の名も多いが、全体としてシナイ半島から南アラビアの部族を指す。ミディアンはシナイ半島からアラビア半島のベドウィン部族(37:28他)、シバは南アラビアの国、

イシュマエルの子孫は前9世紀以降のアッシリアの王碑文に言及される北アラビアの部族名。全体として、前1千年紀にシナイ半島から北アラビア・シリア砂漠にかけて存在した部族名。