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2009年1月11日

《イエスの洗礼》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ3:13〜17

降誕節第三主日、讃美歌54,123,287、交読文2(詩2篇)
聖書日課サムエル上16:1〜13a、ローマ6:12〜23、マタイ3:13〜17、詩編2:1〜12、

 昨夜、というよりも今朝でしょうか、三時ごろに目が覚めました。外を見ると明るいのに驚きました。月が皓皓と照り渡り、庭木も白々と輝くようでした。これは寒くなるぞ、と思いました。案の定、寒いですね。それでもメジロがやって来てくれました。
寒風と暖かい陽光の中、新年も第二週に入りました。

『めでたさも中位なり おらが春、』 小林一茶の句でしょうか。

1800年代、信州の農村生活の中で読んだ俳諧、生活が滲み出ている、と感じていました。
今年、多くの日本人にとって、このような感じだったのかな、と思っています。
と言っても昨年来入院中の方もおられます。病院での年越し、本人もご家族も大変だったことでしょう。派遣切りその他の理由で、職や住む所を失った方もおられます。たとえ、自分自身は平穏無事であっても、このような困窮と悲しみの中にいる方たちがいることを思うと、将にめでたさも中くらいになってしまいます。

憶えてお祈りして参りましょう。

マタイ福音書は、美しくも不可思議な降誕物語の次に、ふたりの幼子の成長した姿を持ってきます。祭司ザカリヤとエリサベトの息子として生まれたヨハネ、そしてダビデの血筋のヨセフとおとめマリアの息子とされたイエスです。このことはルカ福音書1章に記されています。
マタイ福音書には、ヨハネ誕生のことは、ひとつも記されません。3章でのヨハネの登場は、いささか唐突に感じられます。誕生した幼子と成人したふたりが、30年の歳月を経て同一人物か否か、論議されてもおかしくはありません。

初代教会の人々は、そのような疑いは持ちませんでした。不思議な誕生をした方には、不思議な生涯が用意されている、と考えて、受け入れたのでしょう。順序は逆かもしれません。不思議な生涯、十字架と復活、この方に相応しい不思議な、奇跡の誕生物語。私にとりましては、ここに信仰が働きます。論理や科学ではない、信仰の世界が開けてきます。

青年の頃は、論議のために論議をし、そのために問題点を探しました。
歳を重ねるに従って、変化してきます。信じるために物を考え、余分なものを切り捨てようとします。議論をすることを無駄、とは考えません。しかし、それだけでは信仰にはなりません。論議を終えたところから信仰が始まる、そのように考えています。

この所を読んで気付かされることがあります。

イエスは何が正しいことか、為すべきことか、明確に判断し、確信している、ということです。「正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」。

3:16、ヨハネは、神のもとに立ち帰り罪が赦されるように人々に勧め、洗礼(バプテスマ)を授けた(ルカ3:3)。ヨハネはイエスに洗礼は必要ないと主張したが、イエスは神がお望みなので、洗礼を受けるべきだと語った。
3:16、ここでの天は、ギリシャ語では複数形。

神がお望みになることをどの様にして、知ることができるのでしょうか。私たちの場合、たいていは思い込みであったり、独りよがりであったり、思い違いであったりするのではないでしょうか。私の場合、試行錯誤ですが、長い時間の中で修正され、御旨に近い所で落ち着いているようです。決してビンゴ!と言えるものではありません。

主イエスの言葉に対して、ヨハネは言い返すこともせずに従っています。ヨハネから見れば、イエスは6ヶ月年下の親戚の男性のはずですが、年上のヨハネが従っています。
「ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」

また、そのことを神ご自身が承認し、宣告しておられます。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、文語訳では
これは我が愛しむ(いつくしむ)子、我が悦ぶ(よろこぶ)者なり」

御子イエスは、矢張り特別な方です。全たき人としてお生まれになりましたが、神のお子として、その父の心を知っておられたのです。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
この言葉は、この時点のことだけではありません。これからの全生涯に渡って、イエスの歩みを確認・保証する言葉です。人々は、嘲り、罵り、蔑もうとも、それは父なる神の承認の下にある。人々が、賞賛し、仰ぎ望み、信仰し、神の如くに崇める時も、主なる神がそれを保証しておられるのです。

毀誉褒貶は、誰の人生にも付きまとうものです。そのようなことに一喜一憂することはありません。永遠に生きたもう主なる神は、私たちのすべてを見ておられます。私たちが罪人である故に、その罪を赦してくださいます。多くの人の賞賛を求めるのが私たちでしょう。それよりも、神の恵みによる罪の贖いを大事にしたいものです。

全生涯が、神の御手の内に置かれている人は幸いです。

さて話が前後しますが、このように主イエスは、バプテスマをヨハネからお受けになられました。どのような形だったのでしょうか。「ヨルダン川」とあります。岸辺の浅い所、と考えられます。ここヨルダン川流域は亜熱帯型の気候に分類されています。一年中、随分暑いところです。水浴型の洗礼(全身を水中に入れる)であっても何ら差し支えはありません。シャワー型(上から水を注ぐ)も同じように感じられます。象徴的な滴礼はもっと後の時代のものでしょう。寒冷地へ伝道されて行くに従い、教会がその必要に応じて生み出したものでしょう。

本来の洗礼は、水の中に全身を沈める形であったろう、との考えがあります。
水に沈めることに大きな意味があるからです。
私たちは、水に沈められることを恐れます。これは古代からの経験に裏打ちされたものです。意識下の記憶ともいわれます。
ひとつには水中では息ができなくなり、死が待つからです。
もうひとつは、古代人の考え方です。水中には、怪物が生息していて、我々を引き込み、死に至らせる、というものです。

同時に、この水は命の水です。
現代科学は、海の水は、その成分が人間の体内の水分と同じであることに注目しています。
海水こそ命の水ではないか、と言います。
聖書は、主イエスの言葉として、渇くことなく、永遠の命に至る水が湧き出る、と言わせています。ヨハネ福音書4:13~14をご覧ください。サマリアの女との問答です。
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。』

水に沈めることは、間違いなく、死を意味しました。
その中から引き上げることは、死からの再生・甦りを意味します。
バプテスマは、私たちが罪に死に、キリストと共に神に生きるようになることです。
「主イエスが水の中から上がられた時、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあります。「神の霊」については、創世記2:7をご覧ください。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。これが人を生かした創造の神の息、聖霊です。
2005年5月8日《生かされて生きる》と題された説教がこのところです。
神の息は人を生かす神の力です。

ヨルダンの畔で、主イエスに降った霊は、再創造の霊です。
そして、現代のキリスト教会でバプテスマを受ける者は、この霊によって再生の洗いを受けています。あなたがたお一人びとりは、すでに新しくせられました。
罪に死に、永遠の命に生かされているのです。
水は命を奪う、死をもたらすものであり、同時に命の源でもあります。
洗礼・バプテスマは、死と甦りを同時に顕します。裁きかつ救う福音そのものです。

本日の日課のうち、使徒書簡、ローマ6章の小見出しは「罪に死に、キリストに生きる」とあります。まさに、神の霊による再生のバプテスマです。

そして、この霊は、助け主であり、慰めの霊でもあります。

私たちは、この霊によって生かされています。どのような艱難、苦悩、悲しみの中にあっても、怖じ惑いません。すべてに勝利する神の力を、神の霊をいただいているのですから。
これは風と同じで、決して目に見ることは出来ません。ただその働きの結果を見ることが出来ます。私たちは自らの歩みによって、神の力の働きを証しすることが出来ます。

感謝して祈りましょう。