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2009年1月4日

《ナザレ人と呼ばれる》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ2:13〜23

降誕節第二主日、新年礼拝、讃美歌1、413、291、交読文28(詩119篇)

聖書日課 エレミヤ31:15〜17、?コリント1:3〜11、マタイ2:13〜23、
詩編70:2〜6、


静かなお正月でした。本当は二人の孫が来ていたのでにぎやかでしたが。穏やかです。
不況マインドでしょうか、住吉大社へ初詣に行く人が、この前を大勢歩いています。普段よりも人通りが多い位です。阪堺電車に乗っておられる姿も見ます。東玉出で降りて、南海電車の駅に行く人も結構おられました。

不況であってもこの国は平和を謳歌している、と感じます。今年は総選挙の年です。
戦争する国、戦争できる国にしてはならない、と強く感じます。この一月は、アメリカ合衆国の大統領が変わります。日本でも何かが起こるはずです。

おかしなことかもしれませんが、箱根駅伝を見て、大きな変化を感じます。往復200キロを越える関東大学駅伝の世界でも、大きな変化が続いています。東洋大学は初めての総合優勝。
連覇を予測された駒澤大学はシード権を失いました。青山学院大学は、33年ぶりに競技に復活しました。明治大学は久し振りにシード権獲得。いまだに陸の王者慶応義塾はじめ立教、法政の姿はありません。

麗澤大学の名前が学連選抜チームのアンカーにありました。どなたもご存じないと思います。
千葉県柏市にあったと記憶します。最近の新設校で、立派なホテルをもっています。
上武大学は、群馬の大学としては、初の出場、これからが期待されます。さまざまなことがありました。沿道には大勢の観客が応援していました。
あの東海道を何回か車で走ったことがあります。

この国の大部分は、正月を祝う気分です。その中でキリストの教会は、まだクリスマスを祝い続けようとしています。それは、世の中のさまざまな変化の中にあって、救い主のお生まれは大きな意味を持ち続けていますよ、と語り続けるためです。

13〜15節はエジプト避難

ヘロデ大王は、自分の王位を守るためには、肉親でも殺してきました。自分が正当な資格を持たない簒奪者である、と承知しているからのことです。正当な王位継承者を殺して、王位を奪いました。

創世記4章でカインは兄弟アベルを殺します。殺すことのできたカインは、次は自分が他の者の手にかかり殺される、と恐れます。主はカインに一つのしるしをつけられます。これは殺されないように守るしるし、同時に殺人者への裁きのしるしでした。

殺人者ヘロデ大王は、自分がいつ殺されるか、絶えず恐れていました。
見たこともないベツレヘムの子供たちの命には、何らの値打ちも認めませんでした。
むしろ、あの町がダビデの町であるなら、積極的に全住民を殺しても良い、という位に考える人でした。

14節「夜のうちに幼子とその母を連れて」ヨセフは出かけます。

夜のしじまのうちに何が起こるのだろうか。恐ろしいことが起こります。何故か〈水晶の夜〉クリスタル ナハト、が思い出されます。1938年11月9日、ドイツ全土でユダヤ教の会堂・シナゴーグやユダヤ人商店、住宅が襲撃され、ガラスが破壊され道路上に散乱し、水晶のように輝いたことから名付けられました。
美しく幻想的な名付け方です。実際は、破壊された建物の瓦礫や殺害されたユダヤ人の血や遺体などが散乱し、全く悲惨な状況でした。ホロコースト、ナチによるユダヤ人大量虐殺、皆殺しの始まり、と理解されています。
この翌年、ドイツはチエッコスロヴァキアを併合します。全世界から非難を浴びました。そして戦争への道を確実にしました。

そして今、闇の中で、人知れず多くの子どもたちが殺されています。
憎しみと利己的な欲望、貧困、戦争と病気のために死んで行きます。もっと生きたい、大きくなりたい、愛したい、愛されたいと叫びながら。

暮れには、タクシーの運転手が続けて殺されました。何のために。丁度30日にタクシーを利用しました。その話になり、運転手さんは「私たちは客を選べない、断れない、一番弱い立場です」と語ってくれました。乗車拒否をされると、私たちも困ります。一人の命と引き換えに、数万円が奪われたらしい、ということでした。

嬰児イエスと、その母マリアの命を救う主のみ言葉に従い、ヨセフは家畜小屋を後にします。そして恐ろしい闇の中に足を踏み入れます。夜は、夜であるから恐ろしいのではありません。
そこには親しい者、助けてくれるものの姿がないからです。見えないから不安になり、恐ろしくもなるのです。主の御言葉のままに歩みだす時、そこには抱きかかえてくださる主の御手があります。冷たい闇の夜も、自分たちの姿を追っ手から隠す帳(とばり)となり、安心を感じることが出来ます。守られた道筋は、エジプトへと続きます。

旧約聖書の歴史は繰り返されます。

困窮した者はエジプトへ下ります。アブラハム、イサク、ヤコブの一族がそうでした。
救い手は、エジプトから現れます。ヤコブの11番目の息子ヨセフ。飢饉の時、イスラエルの助けはエジプトでした。
そしてもっと後の時代のモーセ。彼自身エジプトで救い出された者です。そして多くの奴隷の民をエジプトから引き出す者、救い出す者となります。

16〜18節は、ベツレヘムの虐殺が語られます。

当時の人口を調べ、2歳以下の男の子の数を推定し、数名程度であったろう。決して大きな虐殺ではなかった、とする考え方はとりません。ヘロデの兵士たちが命令の遂行に熱心でなかったとも考えません。どの様に理由付けして、それが一人であったとしても、この所では悲しみ、苦しみ、大きな叫びが間違いなく存在します。

ベツレヘムは、パンの家という意味で、エルサレムの南7キロ、ダビデの出身地、西の斜面にダビデの町の古址があります。
またヤコブの愛妻ラケルは、末子ベニヤミンを産み、この地で亡くなり、葬られました(創世48:7)。それが東北のラケルの丘、ラマト・ラヘルです。
ここでルツがボアズと出会いました。ここから東の方、ヨルダン川の対岸はルツの故郷モアブです。ルツも眺めたことでしょう。

ベツレヘムとその周辺には、降誕の洞窟、聖誕教会、羊飼いの洞窟、博士の井戸などがあります。

伝説的ですが、エジプト行きの聖家族が宿った所はカイロの東北7キロ、昔のヘリオポリスの村付近エル・マタリエであった、と言われます。

マタイだけがこの出来事を伝えています。マタイは、旧約聖書の預言が成就したことを伝えようとしています。
このところは、エレミヤ書31:15に預言されています。
「主はこういわれる。/ラマで声が聞こえる。/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」
この地に葬られたラケルが、愛する子らが取り去られたゆえに、泣いている。
慰められるのを拒んで、泣き続けている、と預言されました。そして成就したのです。
この子供たちは、すべての罪人の、救いのためのいけにえであり、犠牲であり、殉教者なのです。わたしのために殺されたのです。
他人事のように、評論家のように語ることは許されません。私たちは、ラケルと共に泣くことへと招かれています。

19〜23節は、エジプトからの帰国が語られます。
これによってホセア書11:1の預言が成就します。
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」

ヘロデ大王の死後、ローマ皇帝によってその領土は四分され、息子たちに与えられました。
22節には、アルケラオがユダヤの王、とありますが、正確には、この人物はヨルダン川の東を支配していました。ガリラヤは、彼の力の及ばないところです。
ヨセフは非常に慎重です。ガリラヤを定住地としました。
ガリラヤはヨルダン川とガリラヤ湖の西側の地域。この地域はかつて北王国イスラエルの一部であったが、後にアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ更にシリアが統治した。
BC63年にこの地方をローマが帝国の一部にし、イエスの時代も支配していた。
ナザレは旧約聖書には記されていない。

ガリラヤのナザレに住んだために、イエスはナザレ人と呼ばれるようになりました。
マタイの意図が分かりません。
旧約の預言が成就したように書かれていますが、これは旧約に見付かりません。

ある学者、たいていの学者は、スタディバイブルのように若枝のもじりだろう、と書きます。
そこでは、イザヤ11:1が引用されます。
「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち(その上に主の霊がとどまる。)」
枝という語はネゼル、イエスはダビデのネゼル、若枝。ダビデの末、神の油注がれた者、という意味であろう、とします。

私自身は、ひそかに考えています。言葉のアヤ、もじりを認めるなら、ナジル人のもじりでも良いではないか、と。サムエル、サムソンなど同様に、と考えたいのですが、ちと無理があるようです。その後の生活がそれとは違いますので。

マタイは、ナザレに意味がある、と考えていたようです。今やそれは判らなくなりました。
学者の説はそれとして、分からなくても良いではないか、と考えます。
神は、石ころからでもアブラハムの末を立てることがおできになります。
単なる『ナザレの村人』からでも救い主を立てることができます。血筋も家柄も不必要である、と告げるのが、マタイの意図である、と私は信じます。
ひとりの人として、ナザレの村人イエスを用いられるのです。」
ナザレの村里で成長したこの幼子は、世を救うため、神に捧げられ、救い主と成ります。

私たちも、血筋も家柄も財産もありません。その私たち一人一人が、神のご計画の中で用いられます。

感謝と賛美、そして私の全てを主にお捧げしましょう。