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2008年5月18日

《わたしの平和》

説教者:
牧師 中谷 哲造
聖書:
ヨハネによる福音書14章25〜31節

  キリストの言葉:わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える…… 心を騒がせるな。おびえるな。(27) 聖書において戦争の対立概念としての平和を意味する言葉はシャロームです。それは単に政治的な概念ではありません。元来シャロームという言葉は何かが欠如したり、損なわれたりしていない充足状態のことです。そこから無事であるとか、元気に生きているとか、平安であるとか、健康とか、繁栄とか安心とか和解というような人間のあらゆる領域にわたって真に望ましい状態を意味する言葉、これがシャロームです。それは単に精神的な平安状態のみをさすのではありません。歴史的なあるいは社会的な具体性を伴った福祉状態を包括した概念です。

 このような意味での平和はイスラエル、神の民にとっては神の業、そして神の賜物であります。神さまと無関係に人間の知恵や力で完結するものではありません。神さまに対する人間の態度が問われるのです。人間が神の意志に基づいて正義を行うことによって、神との契約関係を正しく保持することによってと言い替えましょうか」、そこに現実化するのであります。「正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である」と予言者イザヤは32章17節で語ったのであります。

 今朝は旧約聖書のミカ書5章4節を引用させていただきました。

  彼こそ、まさしく平和である。

という御言葉です。予言者ミカは紀元前730年頃から30年間程、南王国ユダで予言者として活動した人であります。ユダの山地の南西斜面ペリシテの国境に近いモレシテという小農村の出身であるミカは貧しい農夫でもあったと言われています。

 彼は時のユダ王国における罪を指摘しました。それはときの支配階級の暴虐と宗教家の堕落した姿であります。戦乱によって耕地を踏み荒らされ、収穫を奪われた農民を地主や富める者たちがとことん搾取していると言いました。それは、お互い主の民でありながら骨肉相食らう姿でした。さばきを委ねられた者が、賄賂を取って非道な富者の味方となり、頼っていくところもない者たちを虐げ、政治家は自らの安楽をむさぼって神を畏れなかったというのであります。このような不正不義を正すのが宗教の役割であるはずでありますが、その指導者らはかえって支配者と結託して、支配者におもねていたのでした。

 エルサレムはこのような腐敗と堕落の巣窟であるとミカは激しく批難しています。そして、ミカ自身が貧しい農民の一人として苦悩していく中から、メシアの到来を予言したのであります。この来るべきメシアこそ、平和であると5章4節で言っているわけです。

 わたしたちは、この来るべきメシアがイエス・キリストであると新約聖書が告げていることを信じるのであります。ヨハネによる福音書14章27節でこのイエスさまは「わたしの平和をあなたがたに与える」とおっしゃいました。イエスさまがおっしゃった「わたしの平和」をどのように受け取るべきでしょうか。

  わたしはこれを世が与えるように与える  のではない。

ともおっしゃっています。そこで、世が与える平和とイエスさまがもたらしてくださる平和との違いを考えておきたいのです。

 まず、この世が与える平和ということで思い出すのは、バランスオブパワーと言われた平和であります。世界第2次大戦が終ってから数十年、アメリカとソ連とはお互い大国として力を競い合ったのでした。両国の間は火を噴く戦争にはなりませんでしたが「冷戦」と名付ける変則的な平和を保ったのです。言い換えるとそれは「核戦力のバランス」でした。一方が核兵器の発射ボタンを押すと、他方も同じようにボタンを押すだろう、それは相撃ちになり、お互いに滅びることになる、それどころか、地球の破滅になる。だからお互いはボタンを押さないでいようという核抑止の平和であります。この平和が成り立つためには、双方が対等の核戦力を持っているはずだという思い込みがなくてはなりませんでした。ところが、人間の心理上どうしても敵方がより強い戦力を持っているに違いないという不安を消せないわけですから、双方とも無限に軍備拡張に走らざるを得ませんでした。双方はこうして巨大な軍事予算を組んで国家予算を圧迫し続けたわけです。そうしているうちにソ連が先に耐えられなくなってゴルバチョフがペレストロイカ(建て直し)を始めましたがその経済的改革は失敗してしまいました。そこでゴルバチョフ政権は倒れて冷戦構造が解体したわけです。しかし、アメリカも国家財政と国際収支において巨大な赤字を抱え、今も苦境に陥っているわけです。このアメリカを支える同盟関係に立つ国々がありますが日本は特に膨大な経済的支持を続けてそのアメリカに貢いで支えていることは誰もが周知のことです。これはイエスさまが仰った「この世が与える平和」の一例であります。

 このアメリカがイラクの大量破壊兵器の保有ということを理由にイラクへの先制攻撃を始めてすでに5年になりますが、今もこの戦争をやめようとしません。しかも、劣化ウラン弾を大量に用いてイラクの非戦闘市民・女性・子どもに癌を患う人、白血病になっている子どもなどが、そしてアメリカの兵士にも同じ白血病が起こっているわけです。この戦争をやめないアメリカ軍を支援するために日本の自衛隊は給油・給水活動を続け、航空自衛隊は軍事行動を支え続けています。先日、名古屋高裁が自衛隊イラク派兵は違憲とする画期的な判決を致しましたが、これに対しても政府は無視する姿勢をとり、このために、わたし達の莫大な税金が使われ続けているのであります。

 つい一週間ほど前にイラクの都市バスラでアメリカ軍の空爆があって、発電所の6基の発電機の半分が破壊されて停電が続き、その影響で水道が出なくなったというニュ―スを知りました。 バスラのある病院の院長から日本のNGOとのパイプをもっている医師イブラヒムさんにSOSが発信されたというのです。バスラの病院に緊急で給水を切望しているという電子メールがイブラヒムさんから日本のJIM−NETというNGOに届いたということを知りました。(JIM-NETというのは、日本イラク医療支援ネットワークという組織です。アメリカが起した戦争で劣化ウラン弾が用いられ、その影響で癌患者となった子ども、白血病となった子どもの医療支援などを行っているNGOです。)自衛隊は今もアメリカ軍や同盟の多国籍軍に対して給油と給水を再開しました。かつてサマワでの給水活動を打ち切った自衛隊は引き上げたのですが、イラク人の病院の衛生保持をはかって給水するのは今ではないのかと、腹立たしい思いをいたします。まさにこの世の平和というのは、強い者が限りなく自分の利益を求めて弱いものを侵し、征服して従わせることなんです。パックス・ロマーナ、パックス・アメリカーナ、などと言われる誤ったこの世の与える平和であると思います。イエスさまが「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うな」と言われたのは、どういう意味かをここで示されます。

 イエスさまの平和、イエスさまが弟子たちに残し、与える「わたしの平和」と言われた主イエスの平和はこの世の平和とは全く違うものだいうことを弁えたいものです。それはキリストによって与えられる神の愛と救いの実現こそ、イエスさまの仰る「わたしの平和」であります。 

 人が人に及ぼす害悪の最たるものは、富める者が限りなく自分の利益を追求することと結びついて起こる他者への抑圧と差別にほかなりません。人を萎縮させ、人から生きる気力をそいでしまい、人生の喜びを奪いそして殺す威圧的な力から解放されることをこそ望み、抑圧されている弱い立場にいる人々を隣人とし、その苦しみや痛みを分け合う生き方を目指す。それが現実化するところにイエスさまの与える平和を生きる姿があるのです。

 いま西成の愛隣地区、釜が崎で司牧していらっしゃる本田哲郎神父はこういう言葉を記しておられます。

「イエスさまは悔い改めよ、神の国は近づいたと宣言された。悔い改めすなわちメタノイアとは、本来視点の転換を意味する言葉です。判断の筋道を変えることであり、視点を移すことである。そこで今まで見えなかったことも、視野に入ってくることになります。新しい視点から自分を振り返り、社会を見直す。そして、自分と人、自分と社会のかかわり方を見つめなおすときに、大きな自己変革への可能性が開かれるのです。」そして「メタノイアが70人訳ギリシャ語聖書のおかげで <痛みを共感する> という意味を含んでいることがわかる。視点を移す先は人の痛みを共感できるところ、抑圧され小さくされた人々の立つところにおくようになることだ」と述べていらっしゃいます。そこから、福音の何であるかがわかるようになるというのです。人に「悔い改めよ」というよりも、自分がまず、低い所に立って見直すことをもって、イエスさまの平和が自分にも人にも染み入るように味わい得るものになるのです。

 東京都調布市にクッキングハウスという名の施設があります。松浦幸子さんという心病む人々のケースワーカーである方がその人々の <ほっとできる居場所> を提供することから始まって今ではメンバーさんたちが松浦さんと共に食事を提供できる不思議なレストランになったという話を先週ラジオ放送で知りました。くわしくは、ネットでクッキングハウスを検索すればわかりますが、松浦さんの発想は今紹介しました本田神父のメタノイアを連想させるものがあります。

 世の中で小さくされている人々、苦悩してもがいている人、いわゆる不幸を担っている人々に視点をおいてわたしにできる小さな業を担う生き方の中にイエスさまが「わたしの平和」とおっしゃる平和が染み入ってくるのだということを今朝のメッセージとしたいのです。