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2007年6月17日

《キリストを信任する教会》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書8:40〜56

  聖霊降臨節第4主日、讃美歌77、121、275、交読文23(詩96編)

  聖書日課 申命記8:11〜20、使徒4:5〜12、詩編52:3〜11、



本日の主題には、非常に強い違和感があります。信頼して任じる、国家主権を代表する大使を信任する、従って一国に赴任する大使・公使は信任状を相手国に提出・奉呈します。

教会がキリストを信任する、教会があってキリストが認められる、逆ではないでしょうか。

私はこうした考えを理解することができず、認めることが出来ません。聖公会の日課では、6月15日に近い主日という特定があり、福音書ならマタイ18:1〜14、ルカ12:41〜48などが挙げられています。どちらかが毎年読まれることになります。勿論、日課によらない説教もあるだろうと思います。

惰性を打ち破る新しい試みは大事です。しかしその説明が欲しい。一読諒解できるものは宜しいけれど、いくら考えても解らないもの、一人よがり、独善は困ります。是非その理由を教えていただきたい。きっと頭の宜しい方がお考えになられたのでしょう。私のレベルでは何も判らないのです。説明義務があるのではないでしょうか。政治の世界で「充分説明しました」と言われる政治家、官僚がおられます。そのかたはよほど頭が良い方なのでしょう。ご自分では判っている。説明というのは、解らない者に、自分が理解している事を解るように伝えることです。《教会を信頼するイエス・キリスト》が主題です。



 まず旧約の日課から学びましょう。申命記8:11〜20です。

申命記は、出エジプトの民が、荒野での40年の期限を終了し、間もなく約束の地カナンヘ入ろうとする時期のことが記されます。

 荒野の40年間は何のためなのか?議論がありますが、エジプトで奴隷の民として屈従を当然としてきた者たちを自立の民としようとされた。更にエジプトで偶像の神々を礼拝してきた者を唯一の神ヤハウェを礼拝するように訓練しようとされました。

要するに、奴隷の民から、ヤハウェ礼拝の民へと訓練する期間が、あの荒れ野の40年でした。その期間が満了しようとする時に神は何を語られるのでしょうか。賞賛ではない。

私の命令と、掟、定めを守りなさい。しかし、約束されたカナンの地に入り、生活が安定し、豊かになると、すべては自分の力によるものと考え、神の恵みを忘れるようになるでしょう。そのときあなた方は、あなたの神を思い起こすなら力を与えられるでしょう。まことの神を忘れ、他の神々に従い、これを拝むならば、あなた方は必ず滅びるでしょう。

こうして神ヤハウェは、契約を結び、先に砕いてしまったものに代わる、二枚の石の板に十戒を書き記されます。これは第10章です。祭儀的十戒と呼ばれます。実際は、それ以外にも多くの戒めが与えられています。

これは、イスラエルが滅び去ることのないように、という神の恵みから出る警告です。

律法主義は、この神の恵みを忘れ、何もかも自分の力が成就するのだ、と考えることです。掟を、戒めを、律法を自分の力で守れば繁栄がやって来るように考えるのです。ここにイスラエルの、そして私たち人間の罪があります。忘恩、恩知らず、恥ずかしいことです。

いつでも神の恵みを思い、み力によって今がある事を知り、神を讃美しましょう。

私たちは讃美の生活へと招かれているのです。裏切ることになる事を知りながら、神は尚私たちを招いてくださっておられます。そのさなかで、神を恵み思い返し、立ち帰る者を求めておられます。



使徒言行録4:5〜12(219ページ)を御覧ください。これは聖霊降臨節の続きになります。時間的な経過ははっきりしません。2章の末尾で、日々を過ごしたように記されます。その日数などは分かりません。3章では神殿の「美しの門」の傍らで、ペトロとヨハネは、足の不自由な男を癒やします。ペンテコステの日との時間的つながりはなく、「ある日」と考えれば十分でしょう。その癒やしに続いて神殿の中に入ります。ソロモンの回廊で説教をしているところに、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人たちがやって来ました。

祭司はイスラエルの宗教指導者、伝統守護の責任者です。神と人の仲保者です。

神殿守衛長と訳されたものは、神殿警察の隊長と理解します。ローマの政策は、政治と宗教を分離するものでした。ローマの神々とローマ皇帝に反抗しない限り、民族の宗教に関しては自治を許す、というものでした。したがって治安維持の警察力は帝国が軍団兵を用います。神殿と宗教問題に関してはユダヤ独自の警察力を持つことが出来ました。

サドカイ派の人々は、ユダヤ社会では富裕層と見られます。祭司長たちや長老たちと並んで最高法院を更生します。貴族階級と見られる事もあるほどです。ファリサイ派ほどには、律法にも熱心ではなかったようです。また復活はない、と主張していました。終末や最後の審判なども認めませんでした。こうした考えは律法を祭り上げる態度に近いものでした。本来ファリサイ派とは対立するものです。



ここに記される三派の人々は、現実の生活にほぼ満足しており、それを変えたいとは思わないのです。現時点では保守の塊のような人たちです。彼らがいちばん怒っているのは、イエスが死んだのにまだ復活を語る者たちがいる、ということです。本当は、この保守派の人々に殺されたイエスが復活したから、その事実を語っているだけなのです。彼らが殺さなければ、12人の者たちは、これほど大胆に語ることもなかったのです。



結局、復活を語っている、という理由で二人は投獄されます。翌日、顔ぶれが豪華になります。最高議会の人たちと大祭司一族。最高の権威者たちは、二人が復活を語る権威を何処から得たのか、問いただそうとします。二人は大胆に「あなた方が十字架につけて殺し、神が復活させられたイエス・キリストの名によるもの」と応えます。

さらに加えました。「他の誰によっても救われません。私たちが救われるべき名はこれ以外に与えられていません」と。

世俗的には圧倒的な力を持つ者たちが集まりました。それに引き換え、ペトロとヨハネは、いつも一緒にいる者たちから離れ、二人だけで対応しています。弱い者たちです。

彼らによってイエス・キリストの甦りが証言されました。弱い者が証し人に変えられました。



ルカ福音書8:40〜56、これは会堂司ヤイロの娘の癒しと長血の女の癒やし。

全体としては、「ヤイロの娘の物語」の中に「長血の女の出来事」が入り込む形です。



会堂  しばしば、ギリシャ語に由来するシナゴーグが使われます。礼拝と教育の機能を持つ、ユダヤ教の地域共同体の集会所であり、またそこに集う集会を意味します。起源は明らかではないが、前6世紀頃の捕囚期ないし捕囚期以後に遡ります。紀元後70年の神殿滅亡以後は、ユダヤ教宗教生活の中心となりました。

会堂長  会堂司と同じ。ユダヤ教会堂の最高管理者である「長老たち」によって、あるいはその中から選ばれます。会堂及びそこにおける礼拝活動の常任管理者(1人ないし数人、ルカ8:49,13:14、使徒13:15、18:8、17参照)ユダヤ人共同体の中では上層の者。この下に「下役」「会計係」などがいました。

長血の女 異常出血は不浄なる病とされます。その女性が祭儀的に不浄であるだけではなく、彼女が触れるもの、及び彼女の触れたものに触れた者も穢れると見なされます(レビ15:25〜27)。12年間もこうした社会的制裁の下に生きねばならなかった苦しみは、尋常を越えるものと言えましょう。



長血の女は癒やされました。主は彼女に言われます。「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。この「信仰」ヘー ピスティス スー を「信頼」と翻訳したものもあります。

同じようなことが、もっと重要な問題を提起しています。ローマ書3章で「信仰義認」を語る部分です。22節です(277ページ)。        以下省略・削除



長血の女と会堂司は共に、イエスに対する深い信頼を持っていました。最後の拠り所としていたのです。もはや自分の力に対して何も頼ることが出来ませんでした。申命記で神が語られたことです。社会が、個人が豊かになっても自分の力だと思い込み、自分を誇ってはなりません。

私たちが大きな力を持ち、イエスを信任して、何事かを行わせるのではありません。力のない者たち、裏切るような者たちを信頼してお委ねくださる方が居られるから、懸命に力を尽くすのではありませんか。



信頼に値しないものを、駄目人間さえ、恩知らずさえ、神は信任し、ご自身の使者としてお用いくださるのです。