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2008年2月24日

《受難の予告》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ福音書6:60〜71

先週の天候は、だいぶ荒れ模様だったようです。半ば頃に、春めいた日がやって来て、その後すぐに真冬並みの週末となりました。こういうときは天に召される方も多くなるようです。教会員の高橋和子さんは22日・金曜、午後10時26分、天に召されました。後ほど報告があります。教会学校などでも活躍された古い方です。どうぞ高橋さんを覚えて、共に礼拝を捧げましょう。

本日の讃美歌のうち、うしろの二つを良くご覧ください。何か、お気付きになりましょうか?そうです。共に由木庚先生の讃美歌です。作曲は安部正義先生と津川主一先生、いずれも日本の教会音楽界の重鎮でした。日本人の讃美歌が、もっと歌われるようになると、大変喜ばしいことです。そのうちに三曲共に一人の作詞、或は作曲、というようなこともあるでしょう。私のささやかな遊び心ですが、それでも礼拝に相応しいものを選びたい、と願っております。

本日も、何が与えられるのか、旧約の日課から読みましょう。377ページです。
ヨシュア24:14〜24、ここは、「シケムの契約」という小見出しの一部です。前の世代はシナイで契約を交わしています(出24:3〜8)。ここでの契約の形式は中近東の宗主国王が従属国と結んだ契約の形式にのっとったものとされています。
15節は、神ヤハウェに従うヨシュアの、イスラエルに対する挑戦、と感じられます。
「あなたがたが仕えようと思う神を選びなさい」。川の向こうで仕えた神々、アモリ人の神々、どれでも宜しい。「ただし、私と私の家は主に仕えます」。
 
アモリ人を追い払ったことについては、民数21:21〜32を参照してください。

「主に仕えます」。ヨシュアはあらかじめ、神との契約を破ると、民の滅亡という恐るべき事態を招くと警告しています(23:12〜16)。神との契約は民の自制と献身を求めるものであり、民の契約への熱心さだけでは不十分とされます(24:19,20)。
19節をご覧ください。「あなたたちは主に仕えることが出来ないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである」。
熱情の神とありますが、これはこれまでは妬む神と訳されていました。妬む神とも訳せる(出20:5、申命5:9)とされます。しかし熱情がそのまま妬みとはならないので、妬み、嫉妬する、と訳したほうが分りやすいように感じます。
20節、「主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる」。愛と憐れみの神は嫉妬する神です。
愛する我が民が、他の神々、神ならざるものを礼拝し、それに従うことを喜びません。
外国の神々は、この当時ほぼカナンの神でしょう。カナンに定住した時、イスラエルの民は、カナンの神々が礼拝されている聖なる場所を破壊しませんでした。中には、そうした神々の儀式に参加する者もいました(ホセア4:12〜14)。士師9:4,46参照。

そうした者たちが、いまや唯一の神を選択します。自分にとって都合の良い神を選ぶこととは違います。むしろ、自分たちは神に愛され、守られ導かれ、乳と蜜の流れる地へ引き入れられたことを、感謝をもって承認する、ということです。多くの神々の中から適当なものを選ぶのではありません。神ならざる神への訣別です。「出エジプト」という圧倒的な出来事、そのうちの示された絶対的な神の力に誠実に対応することです。これが求められました。

神の教えの書、ヨシュア記で『律法の書』『モーセの教えの書』と呼ばれているものと同じであろう(1:6〜8,23:6)。聖書でこの表現が用いられるのはここが初めて(代下17:9、ネヘ8:18参照)。
 
27節では石が証拠である、とヨシュアは告げています。契約を正式なものとするためにはそれを証言するものが必要でした。ここでは聖所に立てた大きな石が証人になります。(士師9:6参照)。ギルガルの12の石や、ヨルダン川東岸の部族が作った祭壇も同じ機能を持ちます(4:20〜24,22:26〜28)。古代では一般的な風習であったと考えられます。
 こうして、モーセは120歳(申命34:7)で死に、ヨシュアは110歳で死にます。

この何処に《受難の予告》を見るのでしょうか?

そこで使徒書簡日課を見ましょう。ガラテヤ2:11〜21、新約の344ページです。
ここは昨年10月から12月にかけての水曜日、7回にわたって聖書研究しました。
エルサレムの使徒会議は、異邦人の改宗者に律法の重荷を負わせないことを決めます。とりわけ割礼を要求しないこと、食物規定の義務を課さないことなどでした。食物規定の中には、穢れた食物を食べる者たちと食卓を共にしないことも含まれています。
ペトロは、パウロが拠点とするシリアのアンテオキアに来た時、当初この規定厳守を要求しないことに賛成し、異邦人たちとも食事をしていました。ところが、エルサレムに居るヤコブの下からある人々、律法を厳しく守る人々がやってくると、その圧力のためでしょうか、態度を変え、異邦人改宗者たちとの会食を避けるようになりました。アンテオキアを拠点に異邦人伝道を実施していたパウロは、このペテロの変節を怒ります。
 そして有名な信仰義認論を展開します。すべての人は、ユダヤ人も異邦人も罪人です。律法の行いによっては義とされません。唯、私たち一人びとりを愛し、ご自身を捧げられたキリストのおかげで生きているのです。
パウロは自分自身のことを「私は、この罪人の頭・かしらである」と語ります。
テモテへの手紙一、1:15、にはこのようにあります。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた、という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たるものです」。
聖餐式の、招きの言葉の一つに続く部分です。
聖晩餐という大きな恵みは、人の罪が認められる、ということが必要なのではないでしょうか。

 本日の福音書から学ばせていただきましょう。
ヨハネ6:60〜71、ヨハネ福音書は、大きな特徴を持っています。三福音書はできるだけ時間を追って、主イエスの出来事を記そうとします。それに対してヨハネは自分の神学的関心に従って再構成します。この6章もそうです。先ず5000人への給食があります。海上徒渉が続きます。その後にパンの意味についての教えが来ます。イエスこそ命のパンである、「その肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」と語られます。そしてなぜか、出エジプトの折、天から降ってきて人々の飢えを満たしたあのマナとは違う、と明言されます。あの時の先祖は皆死に絶えてしまったではないか、それとは違う、と言われます。即ちあのパン・マナを食べた者は死んだが、天からの本当のパンを食べる者は死ぬことはない、と言われるのです。

このとき多くの弟子たちがイエスから離れ去った、と告げられます。どうしてでしょうか。ユダヤの人々が神聖な書物と信じていた旧約聖書を否定するようなことを教えられたからです。先祖を誹謗中傷している、と受け取られたかもしれません。更に、イエスの肉を喰らい、血を飲む、というようなことは旧約律法に反する穢れたことです。血は命である、と長い間、教えられてきました。
この点はユダヤ人だけの問題ではありません。後になって、キリストを信じる者たちが、「カタコムベ」と呼ばれる、ローマの地下墓所で礼拝するようになります。その様子をひそかに監視した報告がありました。「嬰児の肉を喰らい、その血を飲んでいる」とあります。
この報告は、その時代の多くの人を、教会から遠ざける力を発揮したようです。
盗み聞き程度の報告でしょう。クリスマスに誕生したイエスと聖晩餐が一つになって混沌たる状態のまま報告されているのです。今の言葉なら『風評被害』といって良いでしょう。
今日でも、カルト宗教の影響でしょうか、教会では何をするかわからないから近付くな、と言われることもあるようです。私たちの生き方で、誤解を解くことが出来るでしょうか。

 ここでは驚くべきことが指摘されます。主イエスは、ご自身がお選びになった弟子たちのうちに、主を裏切る者がいることを知っておられるのです。

最初、何故、この三箇所なのか、分りませんでした。《受難の予告》に結びつかないのです。もっと適切な箇所があるのに、どうしてだろうか、と思いました。
ヨシュア記24章は、人の罪を厳しく暴き、神へ立ち返ることを教えます。
ガラテヤ書2章は、人の罪は律法によらず、キリストの犠牲によって贖われると語ります。
ヨハネ福音書6章は、お選びになったものの中にも裏切るものが居るという罪の現実を示されました。この罪の現実故に、キリストの十字架という受難が惹き起こされるのだ、と教えられます。すなわち《受難の予告》は、人の罪の告知となり、そこではじめて赦しが与えられるのです。罪を懺悔し、赦しの十字架を感謝しましょう。