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2007年8月12日

《主の来臨に備える》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書12:35〜48

今週半ばに終戦記念日を迎えることになります。1945年8月15日。
あの日も暑い日でした。雲ひとつない真っ青な空が広がっていました。小型機が一機飛んでいました。異常なほどに静かな時がゆっくり流れていました。
練馬大根の産地。畑が広がる中に生垣がめぐらされ、家が二軒あります。これが大空襲を逃れて来た一家の新しい住家。といっても北側の一軒には親戚が入ることになっていたようです。我が家の縁側に低い机、白い布が掛けられ、その上にラジオ。縁先の庭には大勢の大人たちが佇立している。そのはずれに子供たち。ピーピーガーガー雑音の放送が終わった。虚脱したような、安堵したような大人たち。話し声が耳に入る。
「終わったらしいな。これからどうなるのかな。皆どこかへ連れて行かれるんじゃないか、奴隷だよ」。
子どもは遊びに行って良いよ、と言われて驚いた事を覚えています。その数日前、家の前、東南の方角で、道路に爆弾が落とされ大きな穴が開き、家の窓ガラスが割れそうだったのです。きっと角度と生垣のおかげで助かったのでしょう。転居して来て4ヶ月は過ぎていても、庭先へ出ることはあっても、門の外は知らなかったはずです。それも驚きの種だったでしょう。小さな男兄弟三人で遊びに行ったことです。
子供が外で遊べる、当たり前のようでも、戦争はそれを不可能にしてしまいます。そればかりではありません。最近の日本の状況は戦争時と同じ、あるいはよく似たものになってはいないでしょうか。子供の数は少なくなったと言うが、いないわけではない。しかし、公園へ行っても、ガランとして子どもの姿を見ることが少ない。危なくて外で遊ばせられないのです、と聞きます。戦場になったのですか、と聞きたいほどです。
生活重視の政治を、というスローガンを聞きました。
当たり前の事を当たり前にして欲しい。
子供の姿を街角に戻したいものです。

本日の聖書日課をお読みします。最初は使徒書から。
?テサロニケ1:1〜10、この手紙はAD43年以降に書かれた、パウロ書簡最初のものと考えられています。テモテはパウロの書簡の共同執筆者として名前を挙げられることが多い(?コリント16:10、?コリント1:1、フィレモン1:1)。彼はテサロニケ信徒の間の論争を鎮めるためパウロによって派遣されている(3:2〜6)。シルワノは、別名シラスで、第二次伝道旅行の同行者。エルサレム教会の指導者たちが、異邦人たちの中に新しい教会を開拓するためにパウロに同行させた(使徒15:22)。彼らはフィリピで投獄され(使徒16:16〜40)、後にテサロニケで暴徒に攻撃された(使徒17:1〜9)。
テサロニケ教会の特徴は、信徒の大部分が偶像礼拝からの改宗者である、ということです(9節)。これは他の教会からは賞賛され、現地の住民からは非難されることになったでしょう。生けるまことの神に仕える事を知った人々は、毅然とした生活をしていたようです。彼らは、御子が天から来られるのを待ち望むようになりました。

このところの文章は、分りやすい、とは言えません。中心は、主題は何でしょうか。テサロニケの信徒たちを賞賛することでしょうか。小見出しはそのような視点で付けられたかもしれません。むしろ、神への立ち返りを説明する形です。
「神へと立ち返ったのは、あなた方が生ける神に仕えるためであり、更に神が死者たちの中から起こした神の御子、すなわち来たらんとしている怒りから私たちを救い出されるイエスが、天から降りてくるのをあなた方が待ち望むためであった」。

主の来臨を描いています。御子イエスは、来るべき神の怒りから私たちを救い出すために来られます。私たちは、そのためにこそ、神を知り、この方の下へ立ち返ったのです。
これは私たち一人一人の生涯に与えられた使命です。ここに福音があります。

旧約聖書の日課は、エゼキエル12:21〜28です。
スタディバイブルの説明は、三つだけです。
「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」、これは、幻を通して預言されたことは遠い将来に起きることで、今ではない、という楽観主義を表した諺であろう。

イスラエルとユダの民は、偶像礼拝に陥り、不義不正を行ない、外国と同盟を結ぶことでも神を裏切った。結果としてエルサレムの民はバビロンへ捕らえられて行った。他国へ逃げて行った者たちもあり、自分たちの罪によってエルサレムが滅びることになった事を、行く先々の国の人たちに伝えることになった。
バビロニア軍の攻撃を受けるエルサレムの状況を表すのが18節「震えながらパンを食べ、・・・おびえながら水を飲み」である。体の震えは極度の上によるものと考えられる。

25節、エルサレムに迫る危機は明白であったが、住民は預言者の言葉を信じようとしなかった。偽預言者たちが楽観的なことばかり語ったため、滅亡は遠い将来に起こるか、起こらないと思っていたのであろう(12:26〜27)。その結果、人々は言葉と無言劇によるエゼキエルの警告を信じることがなかった。

この25節に対する説明は大事だ、と感じました。非常に今日的なのです。
たとえば、地球温暖化の問題、私たちはまだまだ先のことだから、と安心してはいませんか。この便利な生活様式を手放すわけには行きません。この姿勢はアメリカのものです。
石油製品を垂れ流すように消費する生活、これを止めなさい、と言ったら選挙民から見放されるから政治・行政の人は何も言えない。
しかし、今この夏の暑さはどうしたことでしょう。亜熱帯的な気象が定着してしまったのでしょうか。カナダ、アラスカの環境は如何でしょう。先住民が伝統的な生活を続けられなくなっているそうです。
 今ここにある危機を見ても、何も感じないようにする。そんなことはまるっきりないかのようにする。無視、拒絶、先送り。何も責任を感じなくてよいのでしょうか。

 神の怒りから救い出されるために、私たちは何か出来るのでしょうか。

最初に読まれたルカ福音書12:35〜48を御覧ください。このところは、新共同訳によって『目を覚ましている僕』という小見出しが付けられています。同じような物語がマタイ24:45〜51のあることも示されています。しかしマタイ24:45を見ると、その小見出しは『忠実な僕と悪い僕』となっており、ルカ12:41〜48となっています。そしてマタイ24:36〜43に『目を覚ましていなさい』と言う小見出しがあり、括弧内にルカ2:39〜40とあります。このあたりはもう少し整理し、整合性を高める必要がある、と感じます。

ある学者は、同じ箇所を三つに分けています。12:35〜38目を覚ましている僕たち、39〜40夜の盗人の譬、41〜48忠実か、不実な僕の譬。これで、この所に記され、語られていることが多少見えてきたでしょうか。
ご主人の帰宅に備え目を開けていなさい。
泥棒がいつ来るか判らない。まさかと思うときに備えなさい。
僕の主人の心を知って、その思いに従えるよう備えなさい。
ここでは僕と主人の関係で語られます。余り馴染みがないことです。一家の子供でさえ、現代日本では、父親に対し、もう少し仲良くなろうね、と言うのです。上下の関係ではない様に考えてもよいでしょう。
 それでも言われていること、語られていることの中心は間違ってはなりません。
神は怒りを持って来たりたもう。その時、誰が準備を完了して、お迎えできるのか。
終わりの裁きから救われるために何をすればよいのか。使徒言行録16:31、
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」。信じるとは受け入れることです。ここでも福音が語られます。

感謝しましょう。