集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2007年3月11日

《受難の予告》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書9:18〜27

ルカ9:18〜27は、三つの部分からなっています。
18〜21節は、ペトロのキリスト告白。
22節は、第一回の受難予告。第二回は9:43〜45.第三回は、大挿入をはさんで18:31〜34に置かれています。
良きサマリア人の譬(10:30以下)、愚かな金持ちの譬(12:16以下)、失われた銀貨の譬(15:8以下)、失われた息子の譬(15:11以下)、不義な管理人の譬(16:1以下)、ラザロと金持ちの譬(16:19以下)、癒やされたサマリアのライ病人(7:11以下)、裁判官とやもめ、徴税人とファリサイ人の譬(18:1以下)。そしてエリコでの盲人の癒やしへと繋がります。

このように読むと、疑問が湧いてきます。繰り返されているのは何故だろうか?
詩編注解などを読むと、重要だから繰り返される、注意が必要、とされる。確かにその通り、と感じます。そうであるなら、ここでも同じことが言えるのではないでしょうか。三度繰り返される意味は何処にあるのか。そればかりではありません。主は癒やしの奇跡の後で、この事を誰にも言わないように、諭しています。
 マルコ1:44、重い皮膚病の人を癒やした後、言われます。「誰にも話さないように気を付けなさい」。
 マルコ3:12、穢れた霊どもは「あなたは神の子です」と叫びました。すると「イエスは、自分の事を言いふらさないようにと厳しく戒められた。」とあります。
明らかにご自分がメシアの力を示された事を隠しておこう、ということのようです。メシアである事を秘匿する姿勢です。ところが十字架に掛けられるそして復活する、ということは、三度公にされるのです。どのような意味があるのでしょうか。

それほどの大きな力があっても避けることの出来ないのが人を支配する罪の力。埋めることの出来ない神と罪人の間の深い溝。偉大な奇跡の力によっては救うことは出来ません。ただ十字架で流されるイエスの血潮によってだけ、神に対する人間の罪は贖われるのです。

23節から27節は,十字架を担うように、という教えです。「自分の十字架を背負って、私に従え」といわれます。主イエスの十字架とは違う「自分の十字架が」あるのでしょうか。主の十字架は、自分以外の罪人のために、その罪の赦しを得るために背負われたものでした。そしてそれは、御子イエスにだけ可能とされ、余人をもってしてはなし得ないものです。私たちはその十字架を担うことは出来ません。
聖書日課の書簡を読むと、そこにはパウロの苦難が記されています。「鎖に繋がれるようになった」と。
?テモテ2:8〜13は、古代教会のケリュグマ(宣教の言葉)と考えられています。11節「次の言葉は真実です」以下の部分です。記者は、その前にパウロの信仰告白を記します。これは、その時代の人々によってよく知られ、受け継がれていたのでしょう。

「わが福音に言える如くダビデの末にして死人のうちより甦り給えるイエスキリストを憶えよ。我はこの福音のために苦難を受けて悪人の如く繋がれるに至れり、されど神の言葉は繋がれたるにあらず。」文語訳
「ダビデの子孫にして、死人のうちから甦ったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これが私の福音である。この福音のために、私は悪者のように苦しめられ、遂に鎖につながれるに至った。しかし、神の言葉はつながれてはいない。」口語訳

たいへん印象的な言葉があります。「されど神の言葉は繋がれたるにあらず」、これはチエッコスロヴァキアの神学者、ロマドカ博士(フロマート、ヨーゼフ ルキ)の説教集の表題になりました。20世紀、ナチ・ドイツによる侵略・支配、戦後共産党の一党独裁など苦難の時代を経験した人の説教集のタイトルとして、特に記憶に残りました。

ケリュグマの導入部としてつけられた言葉も印象的です。
「次の言葉は確実である」。ピストス ホ ロゴス。?テモテ1:15にも全く同じ言葉があります。「・・・という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」
何故印象が強いのか、これは、主イエスの語り方に学んでいる、と感じられるからです。ヨハネ福音書に良く出てきます。「よくよくあなた方に言っておく」という形です。新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されます。
ヨハネ13:21「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」
口語訳は「よくよく」。   文語訳は「まことにまことに汝らに告ぐ。」
原語は、アメーン アメーン レゴー フミン
英訳  Verily verily ? say unto you,
主イエスの話し方の特長だ、と感じています。主はお話になる時、その初めに、これから話すことは真実であり偽りはありません、と宣言しておられるのです。しかも言葉を重ね、繰り返して強調しておられます。その感じが遺されているのが良い翻訳だ、と思います。

 本筋に戻りましょう。この手紙は大きな苦難を予測しながら、それを耐え忍ぼう、と勧めます。第一世紀の末ごろには全国的な迫害が起こります。すでに60年代に始まっていました。ネロ帝時代の迫害です。いかなる状況の中にあっても、キリスト・イエスに対して忠実でありましょう、と語っています。
どの様にすれば忠実になるのでしょうか。キリストの十字架の一端を担ぐことでしょうか。艱難・苦難の山を乗り切ることでしょうか。涙の谷を渡ることでしょうか。
新共同訳は、このところの小見出しを「イエス・キリストの兵士」としました。兵士に求められる忠実さは持ち場を固く守ることです。ギリシャ語ではヒュポモネーがそれを表します。どのような持ち場でしょうか。
そこで、私たちは日課の旧約聖書を読みます。

イザヤ63:7〜14は、詩人がイスラエルの民衆に神の優れた恵みを告げ知らせる、という言葉で始まります。そして、イスラエルをエジプトから導き出された神は、また同様にイスラエルを自らの手で救い、導き、ご自身の民としてくださる。イスラエルの神として栄光を顕される、と語ります。
この部分は第三イザヤとされます。バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民は、直ちに神殿の建設に取り掛かりますが、進捗しません。中断します。指導者も代わり、ペルシャの援助を得て、BC515年、ようやく完成します。それでもイスラエルの状況はヤハウェ信仰からは程遠いものだったようです。腐敗した祭司制度と民衆の勝手気ままな生活態度。

詩人預言者は、そうした中で、神ヤハウェが自ら救ってくださる、と預言しました。
自分たちが何とか自分の救いを作り出すのではありません。
人間がどれほど大きな力を持っていても、それを現実に示すことが出来ても、罪の赦しの救いはただ神だけがなし得ることです。
 旧約の詩人は詠いました。49:6〜12.
「神に対して、人は兄弟をも贖い得ない。神に身代金を払うことは出来ない。」新訳です。
文語訳でお読みします。「まことに人は誰も自分を贖うことは出来ない。その命の値を神に払うことは出来ない。とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにその命を贖うためには、あまりに価高くて、それを満足に払うことが出来ないからである。」

 私たちの罪を贖う代償は、神ご自身が払ってくださったのです。もはや私たちは、自分の救いのために背負うべき十字架はありません。在り難い事です。
このことに忠実でありたいものです。さもないと私たちは折角の救いの道を無視して、自分で道を作る。自分を神とすることになりかねないのです。
 忠実であること。それは神を神とすることです。神ご自身による救いを素直に受け入れることです。