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2006年8月27日

《新しい人間》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ福音書10:46〜52

日課 ミカ6:1〜8、エフェソ4:17〜32、詩8:2〜10

この夏、大阪の暑さはことのほかで、流石の私も疲れを覚える。歳のせい、と言われるかもしれない。休みたい、と思うほどだから、余程の状況にある、と感じる。
皆様も十分お気を付け下さい。もうじき夏も終わり、というところで気が緩む。危険。
もう少し気張りましょう。
何故このようなことを語るのだろうか、考えました。何のことはありません。
自分に言い聞かさせるためなのです。説教が、一番効き目がある。

新しい人間、と聞くと、何処にそのような人がいるのだろうか、と考えてしまいます。
新しい、ということがすでに問題を孕んでいます。
今、ここで新しいものは、次の瞬間には、古びてしまうではないか?
本当に新しい、というものがあるのでしょうか。新しいものがあるなら、それ以前の古い人間もいるはずです。それはどのようなものでしょうか。

預言者ミカは、紀元前742年から698年頃にかけて活躍しました。
この時代721年、北王国イスラエルはアッシリアの攻撃を受けて滅亡します。
ミカの活躍の舞台は南ユダでしたが、それもやがてバビロニアによって滅ぼされます。
ミカ書は、全部で7章ですが、二つに分けられる、と考えられています。
1章から5章までは、諸国民に対する神の御支配。
6章から7章は、御自分の民に対する神の支配が語られます。
その2部の冒頭には、有名な言葉がおかれています。
主の前に私は何をもって出るべきか。主が喜ばれるものは何か。当歳の子牛、
幾千の雄羊、幾万の油の流れ、長子・自分の胎の実を捧げるべきだろうか。
「正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むことではないか」。
み名を敬うことこそ賢明である、とも言われます。
ユダの人々は、自分たちは神の民、選ばれた者、と誇りにしていました。
その現実の生活はどのようなものだったでしょうか。10節から12節が明らかにします。
神に逆らい、不正に冨を蓄えている。
それも容量の足りない枡、不正な天秤、偽りの重り石を用いている、と告発されます。
こうして蓄えた不正な冨の一部を捧げたところで、神はお喜びにならない、というのは当然です。それよりも正義と公平を行き渡らせなさい、と言うことです。
 実に、この姿こそ、古い人間なのです。しかも、何時でもここにいる人間なのです。
私たちの只中に、新しいような顔をして立ち働いているかもしれません。
 マルコ福音書10:46以下は、盲人の乞食バルテマイの出来事です。
舞台、場所はエリコの町はずれ。ヨルダン川が死海に注ぎ込むあたり、西へ5キロほど離れたところにあります。近くには遺跡があり、発掘が続けられています。幾つもの層に成っていますが、古いものは5000年昔まで遡るそうです。地球上最古の時代の構築物になります。それよりは新しいものですが、焼け焦げた壁などもあるそうです。旧約聖書に登場するヨシュア時代の遺跡と考えられるようです。
 また、このエリコは、地中海の海面よりも低いところにあって、熱帯の植物が生い茂っていることでも良く知られています。ヨシュアがこの町を占領したことは、ヨシュア記6章に記されています。黒人霊歌「エリコの戦い」は有名です。
古くから繁栄した交易都市です。主がここで何をなされたか、何をなさなかったか、それは記されていません。ただ、この先生の噂話は皆の耳に入ったことでしょう。門の外で物乞いをしているバルテマイにも聞こえたでしょう。彼は今までとは違う何ものかを感じたようです。耳を澄まして主イエスを待ちもうけます。彼は目が不自由です。一つの器官が不自由になると、他の器官が鋭くなるようです。バルテマイは鋭い耳で物音をキャッチしようとします。イエスであることが判ると彼は叫び始めます。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。
余程激しい叫びだったようです。多くの人々が叱って黙らせようとした、と記されます。
ある学者は、これは当然のことです、と語ります。当時、先生と弟子たちは、道を歩きながら質疑を進めました。イエスの周囲の人たち、というのは恐らく弟子たちのことでしょう。自分たちの学びに附いて一生懸命です。邪魔する叫び声を黙らせようとするのは当たり前です、となります。そのとおりです。しかし何かおかしい。頷けないものが残ります。
 
それは主が教えておられることは何か、ということです。これまでにかなりのことが語られてきました。主要なことは語られている、と考えられるでしょう。そうなら、憐みについて学んできているはずです。自己中心についても知っているはずです。
様々なことを学ぶことは出来ます。しかし、それを自分のものに出来るには時間がかかる、ということかもしれません。机上の学問ではなく、それを実践するには、しっかりした取り組みが必要です。
 私たちも彼ら、弟子たち、12人の者たちと同じでしょう。学んでも学んでも、その深い意味を理解するところまで行きません。表面的な学びで終わってしまうのです。「解りました」と言っても、少しも変わらないのです。却って悪くなっているかもしれない、と恐れるほどです。

 バルテマイの叫びは、「ダビデの子イエスよ」でした。イエスの力に対する信仰が見えます。これまで、主イエスに直接、呼びかけることは意外なほど少ないのです。「4:38、先生」、という様な呼びかけはあります。
1:24ナザレのイエス、5:7いと高き神の子イエス、7:28主よ、9:5先生、9:17先生、9:38先生、10:17善い先生、10:35先生、11:21先生、12:14先生、12:19先生、
12:32先生、13:1先生、
弟子たちも、学者たちも、パリサイもサドカイもイエスを先生(ディダスカレ)、ラビ、ラボニと呼ぶことが多いのです。
しかし、このバルテマイは、誰に教えられたのでもなく、イエスをダビデの子と信じているのです。来るべき救い主、王の中の王です。
イエスは、それをよしとされました。

 主イエスは、こうした弟子たちを押し止めて、「あの男を呼びなさい」と言われました。
呼ばれたバルテマイは、上着を脱ぎ捨て、躍り上がって進み出たようです。貧しい者にとって上着は唯一の財産です。大事なものであっても足手まといになるなら脱ぎ捨てる。今、彼には、もっと大切なことが待っているのです。

 イエスは言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。感動的です。
新しい人の誕生です。同時に、進むことを教えられます。行きなさい。しかし、この部分は、人によって、時によって異なります。形は異なりますが、それが神の御心であることに変わりはありません。救いを与えられるとき、同時に使命も与えられるのです。
新人誕生は、新しい道が見えてくることです。見えないふりをしてはいけません。

 私たちのことを考えましょう。ミカ書とマルコ福音書10:46以下、幾つかの古い日地が現れました。私たちはどちらでしょうか。不正な方法で蓄財を図る者たち、これは非常に現代的です。不正とも思わないほど巧妙な搾取の仕組みに組み込まれているのが私たち。とすればこれこそ私の姿。
自分の学びのためにバルテマイを退けようとする弟子たち、教会へ来ることを邪魔するものを切り捨てようとしている私たちの姿でしょうか。共に、ということを忘れているのです。
体が不自由なために、社会から棄てられ、一人前に扱われない。それを嘆き、何とか回復されたい、と願う多くの人々。
 私たちは、これらのどれかに当てはまります。そのわたしたちに主イエスは、呼びかけてくださいます。「あの者を呼びなさい」。この声を喜ぶものは何処にいるでしょうか。
躍り上がり、上着を脱ぎ捨てるものは何処に。ダビデの子イエスよ、と告白するものになりましょう。
 一人が新しい人・人間になるとき、そして主と共に進み始めるとき、その群れ全体が新しくなって行きます。一人への恵みは全体への恵みとなります。
感謝しましょう。