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2006年8月13日

《主に従う道》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ福音書9:42〜50

暑い日が続きます。ようやく体が暑さに慣れてきたようですが、余りの暑さ続きに悲鳴を上げているのではないでしょうか。寝ていても汗をかき、耐えられずに目を覚ます夜が続いています。休養と栄養そして水分補給にお気を付け下さい。

さて本日も、与えられた聖書日課の中から、主題について学びましょう。聖書は、「主に従う道」をどの様に示すのでしょうか。ご一緒に読みましょう。

教会の歩みは主に従うものであるはずです。
1940年以来、日本とアメリカの教会は熱心に祈りました。
初めは「戦争になりませんように」と。
やがて開戦してからは、「平和が回復されますように」と。
同じ祈りのようでありながら大きな違いがありました。
それぞれの国が勝利するように戦勝祈願をしたのです。

主に従い、平和を求める、と言いながら、その中身はエゴ丸出し、自己中心そのものになってしまいます。これは一体どうしたことでしょうか。現代世界では、世界の警察官を自称するアメリカが、その外交において自国の国益第一主義を恥ずかしげもなく打ち出しています。イスラエルのレバノン攻撃は、レバノン南部のヒズポラ拠点からのミサイル攻撃に業を煮やしたものです。これはテロ攻撃、アメリカのイラク攻撃同様許されるもの。アメリカも当然支持する。ヒズポラの拠点を叩き、基地を一掃し、ミサイル攻撃が出来ない所まで占領地を拡大する。その後なら国連軍の展開、レバノン軍の展開を認めよう。それぞれの国の利益に基づき、筋書きが出来ています。そのための時間稼ぎに停戦したり、攻撃、地上戦を拡大したりしているのです。ようやく停戦勧告が出来上がります。そしてその間に、多くの民衆が苦しみに遭っています。テロにテロで応えるのは最悪のシナリオです。聖書は、大胆に、そのような道と異なる道を勧めるのです。ローマ12:19を繰り返しましょう。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」。

申命記10章12節以下は、神がイスラエルに求めることを記します。
「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」
 これは、そのまま主に従うものの道です。世の中では、人道主義というものが大事にされます。しかし、聖書は神こそ主であり、何にも増して重んじられるべきである、と語ります。それが「神を畏れる」ことなのです。
 多くの人に質問が向けられます。「あなたは人生で何を求めていますか?」。
突然このような質問されると、何を答えたらよいか、迷ってしまいます。やがて誰かが「幸福を求めています」と答えると、そうだ、そうだ、と同意したりします。
私たちが求めるもの、それは、形は違っていてもそれぞれの幸せ、幸福ではありませんか。
性別、年齢、能力、家柄、血筋。皆違います。それぞれのとき、それぞれの事情の許で幸福を願っています。ある時には、自分の事ではなく、父親であったり、母親の幸福であったりするでしょう。息子、娘の幸福を願っていたりもするでしょう。
 旧約聖書の記者は、主に従う道は、幸せに続いている、と語ります。私たちが求める幸福への道は、主に従う道ですよ、と語られるのです。

 ヘブライ人への手紙12:3〜13、主に従うことを求めるなら、その人は罪との戦いを覚悟すべきである。これまでは、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。と語ります。罪とは何か。道徳・倫理の面から考えるのではありません。聖書が「罪」と言うとき、それは神の御意志から離れることを指します。神との関係が崩れることです。
神の御旨よりも、人間的な考え、ご都合を優先して考えようとすることと徹底的に戦いなさい、と言っているのです。
 私たちは、キリスト・イエスの福音を信仰している、と言いながら、いつの間にか、世の慣わしや、言い伝えを先行させていたりするのです。もう少し聖書を先立たせることが出来るのではありませんか。青年の頃よく言われたこと、「暖簾をくぐるとき、その前で祈ってごらん。たいてい入る必要はなくなるよ」。

幸福を求める私たちは、それが決して容易な道でないことを知っています。そこには、多くの困難、苦難、辛苦があります。そうした私たちに、今厳しい状況にあるなら、それは霊の父からの愛情溢れる訓練と考えるべきです、と語られています。
その結果は、父の神聖に与ることであり、義という平和に満ちた実を結ぶことになります。
「義」と聞くとすぐに「正しい行い」と考えることが多いのですが、福音的には、神との正しい関係を指しています。それがあるからこそ平安が支配しているのです。幸福と平和への道は、わが主をあくまでも主と仰ぐことへの道、ということです。他の何ものをも、主としないことへの道です。

マルコ福音書9:42〜50、小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石を首に掛けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい、とあります。「躓き」とは何か?
イエスこそ主であると言う告白から遠ざけること、神との関係を破壊しようとすること。
43節末尾に十字のマークがあります。これはギリシャ語聖書と同じものです。その意味も同じです。「前の版にはあった節を新版は欠いている。本書の末尾に異訳によるものがある」。古い写本にはもともとなかったものが、その後の写本には入ってきている、ということになります。説明的な文章が多いことから、編集的な加筆であろうと考えられています。
98ページを見ると載っています。44節「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。
45節にもあります。46節「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。

ヘブライ人への手紙は、罪と徹底的に戦いなさい、と語りました。マルコ福音書も同じです。罪の誘惑に負けないようにしながら、共に神の国へ入りましょう、と言っているのです。いろいろな国があります。ここでは王国です。
NATION、STATE、COUNTRY、DOMAIN、KINGDOM of GOD、

50節「あなたたちは、自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい」。このところの塩は岩塩を指している、と考えられます。塩は、調味料、食品保存料として大変貴重です。それは同時に、同時に友情と契約の徴でもありました(民数18:19、レビ2:13、歴代下13:5参照)。すなわち、互いに共同で塩を食することにより、パートナー間の契約関係が成立しました。これが背景にあるのです。

主に従うものの道は、塩を持ち、互いに平和に過ごすことです。
血気にはやり、不和を醸成し、争いを好むようであってはなりません。
相手を自分よりすぐれたものと考え、一歩も二歩も引いて構えることです。他を支えようと準備することです。主に従う道、少しは明らかになったでしょうか。
労苦して、平和を生み出すものになりたいものです。主が生み出してくださったのですから。